婦人画報(昭和34年7月号)特集:日本マダム論 瀬戸内晴美

(瀬戸内晴美さんの写真の説明)

離婚は女の勲章である。その勲章を一つぶらさげて小説を書きだした新進作家の瀬戸内晴美さん。作品には「白い手袋の記憶」「花芯」「迷える女」など。

 

 

トップ・マダム訪問記 瀬戸内晴美

 内助の功はもう古い。まして有閑マダムは一昔前の語り草。妻の座・母の役割を立派に果たしながら、その余力を己がじしの才能に托して、まさに男まさりの仕事をみごとに切りまわすという時代。この道のトップ・マダム五人の方を作家の瀬戸内さんに訪ねて戴いた。

 

 わたしたち女は、過去何世紀にもわたつて、女は男より劣性な動物だと、信じこむように、しやむに条件づけられてきた歴史がある。

 過去百万年のほとんどの時代において、女は男に隷従してきた。

 女はろばたのこおろぎであり、男は羽ばたく鷲であつた。女は男の財産として、奴隷として、家政婦として経済的に得なものとして、さらに性的に便利な道具として取り扱われてきた。

 余りに長い間そういう状態の中に馴らされてしまつたため、しまいには、女自身が、じぶんには物を考える脳はなく、働く腕はなく、じぶんじしんで立つ足を持たないように思いこんできた。

 物心つくと、すぐ、女は「女らしく」あれと周囲からたたきこまれてきた。従順、貞叔、慎ましさ、可愛らしさ、弱々しさ、涙もろさエトセトラ・・・・それらが女らしさという女の魅力と美徳の切り札の中にふくめられている。

 すべては、男というたくましい大木にからみつく、つたになるための要素なのだ。

「女として一番手つとり早い幸福への近道は、男に“この女は俺がいなくてはどうなるかわからない頼りない女だ”と思いこませることにある」

 というのが、これまでの女大学の卒業証書であつた。

 女たちはしだいに、「女であること」を何よりの護符としてふりかざし、男によりすがって生きるようになつた。女の武器は気絶する、泣く、ヒステリイをおこす、ふさぎこむ等、あらゆる女らしい弱々しさの擬態を、習得することであつた。

 そうした「女らしいしぐさ」をあまりに完全に習得したため、女のほとんどが、彼女自身、それがじぶんの生まれつきの天性だと信じこむようになつてしまつたのだ。

 この長い歴史をかけ、信じこまれてきた誤りは、今でも女の中に根強くしみこんでいる。

 二十世紀も後半で、月世界にロケットが飛び、人工衛星が宇宙を泳いでいる現代でさえ、女として最高の教育を受け、社会に出て、男と伍して堂々と仕事をしているまだ二十代の女性が、

「どうせ女は男にくらべると、頭が悪いのですもの、対等にくらべられたら負けるにきまつていますわ」

 と、ながし目とともに男にむかつていいたがる。

 それは彼女が、潜在的に、男にじぶんをかわいい女、頼りない女として売りこんでいるコケットリイのあらわれにすぎない。

「何事も夫に相談して事を決める」自主性の無さが婦徳の鑑としてあがめられ、「女は男の仕事に、絶対に口出ししてはならない」と身のほどを決めつけられて来た・・・・にもかかわらず、「やはり世界は動いている」

 いつのまにか、女も会計事務所に入り、女社長になり、国会議員の椅子を占め、平和会議に出席している。

 わたしたちの、身近な周囲をみまわしても、才女という皮肉たつぷりな厭味な代名詞や、靴下の強さにたとえられながらも、女でありながら男まさりの仕事をしてのける女性が、しだいに多く目につくようになつてきた。

 女にも、考える脳があり、働く腕があり地に一人立ちする強い脚のあつたことが、すこしずつ女じしんに思いだされてきているのである。

「やつぱり世界は動いている」ようだ。

 わたしは今度の機会に、次にあげる五人のすぐれた同性を、連日訪ねてまわり、そのことを何より強く感じさせられた。

 

(2)美術工芸ガラス工場で指揮をふるうヒゲのない専務さん

   岩田糸子夫人

(3)別居結婚が生んだ弁護士への可能性

   伊藤和子夫人

(4)ロカビリヤンに貯金をすすめる渡辺プロ二十代の女社長

   渡辺美佐夫人

(5)主婦三十五年生からホテルのホステスへ

   団美智子夫人