沿革

的場テルと真珠の半世紀

戦後、疎開先の新潟、高田市でアメリカ兵相手にガレージセールをきっかけに、東京に戻った後、郵船ビル内で売店を開き、事業を広げていき、ついには日活会館のアーケードに真珠店を構えた前社長、的場テルさん。

華々しくマトバパールを発展させた様に聞こえましょうが、実際には「経験したこともないような苦労を、文字通り血の出るる気持できりぬけてきた。」( S34.7.1発行 "婦人画報" ) のです。

 "婦人画報"で掲載された瀬戸内晴美さんによるエッセイ "マダム論"で当時女性が働くことがあまり一般的でなかった中、的場テルさんは「トップ・レディー」の一人に選ばれ、紹介されました。

 「人間、何だって、やる気になればやれるものよ。やらない人は、やつてもみない前から、やらないときめているんじゃないかしら、あたしだつて、自分にこんな事ができる力が あるとは、夢にもいおもわなかつたんですからね。」(同エッセイの対談より)

 この言葉にマトバパールが50年以上続き、お客様に愛していただけている理由があるのだと      信じています。

婦人画報(昭和34年7月号)「トップ・マダム訪問記」瀬戸内晴美

スーベニヤショップから真珠商となった

的場テルさん

(的場テルの写真説明)

 日本ではたつた一人の女真珠商、旦那さまにすすめられたのではなく、戦後、本当の小資本から有名店にした的場テルさん

 

 

 大東京の心臓部、日比谷交差点の角に聳える日活会館ビルは、戦後東京新名所図絵に残りそうな建物だ。

 お上りさんなど、中に入るだけでも入所料をとられるのではあるまいかと、足をすくませたという話があるくらい、堂々としたビルである。

 その地階へ一歩入ると、これはまた、まるで外国へ迷いこんだのかと一瞬とまどうほどエキゾチックな雰囲気が漂っている。

 磨きあげた一枚ガラスのウインドには、金色の横文字が輝き、店の入口の看板も、軒並横文字がずらりとつづいている。

 陶磁器、竹細工、紙細工、東洋調のブロケード地・・・ウインドーの中の商品が、あまりに、日本的? 東洋的? なため、かえって、異国的(エキゾチック)にみえるという奇妙な雰囲気の商店街が展けている。

 もちろん、客種は外人。

 通路のソフアに人待顔の女も金髪碧眼なら、ゆつたりと腕をくんで歩く初老の夫婦づれも、異国人(エトランゼ)。竹細工の電気スタンドをつつませている青年は、チョコレート色の皮膚に青いほど白い眼をしている。

 そんな豪華な商店街の入口に、一きわ輝しいウインドを光らせているのが、的場真珠店であつた。

 訪ねるトップマダムの第一号は、この真珠店の女社長、テル夫人である。

 一粒何千円何万円もする真珠が、ウインドーいつぱい飾りつけられているので、それでなくても妙に森閑としてひんやり冷たいこの地下街が、ふと、海底の童話(メルヘン)の街のような錯覚を呼ぶ。

 螢光灯の青白い光りも、深海に慚くとどいた陽の光りのような妖しさにうつる。

 それらの幻覚が、すべて、無数の真珠の発する光りがかもしだす魔法だとは、しばらく、店に馴れるまでうなずけなかつた。

 一口に真珠色といつても、白い真珠、青い真珠、ピンクの真珠、七色に光る真珠と様々な色と光りがあるので、その艶と光りのシンフォニイは、形容し難い豪華さである。

 それらの真珠を背景にして、立った的場夫人の美しさに、わたしは先ず気をのまれてしまつた。訪ねる前から、美人の誇れ高い人とは聞いていたけれど、まさか、大学生のママであると聞く夫人が、同性の目に一瞬二十代に見えようとは思つていなかつたからだ。

 真珠の滝をバックに立つても、濁って見えない肌の白さは、新潟という雪国美人の特長なのだろうか。同道のカメラマンが、感嘆した白い衿足であつた。

 そのような肌の人にしか、決して似合わない濃紫の単衣が、さび朱色のつづれの帯でしめられ、小柄できやしやな夫人の体にしつとりとまといついていた。

 これだけの店を、その両肩にささえているとは思えない繊細な感じの人。ふと、ねむの花にたとえられた中国の古詩の美姫を思い出した。

 ところが、この東洋的美姫は、折から入つて来た異邦の客に向つて、すらすらとスペイン語と英語を使いわけて商談をはじめた。

 客が納得いくよう、ネックレス用の糸の強さを説明し、真珠の重さを指摘する。決して店員まかせではない気魄が、ぴりりときやしやな全身にはりつめた。

 店を離れてもらつて対談してみると、夫人の声には、やはり年令のしみこんだ落つきとさびがあり、話の内容は、がつちりと筋金が通つていて、話術の運びは、スピーデイで完全な事務家のものであつた。

 何不自由なく育つたお嬢さんから奥さんへご主人は当時、日本輸出工芸会ーの社員であつた。幸福な母になつた夫人が、突然、事業に手を染めるようになつたのは、敗戦のためだという。命からがら焼けだされ逃げていつた新潟で、スーベニヤの店を開き、親戚知人から出してもらつた不用品を並べ、外国兵相手に商売をはじめたのが、面白いほど売れ、次第に商売を本格的に広げていつた。

 焼けあとの東京に帰り、郵船ビル内のPXの売店をふりだしに、ついに、日活会館のアーケードに真珠専門店を開くまで、夫人は「経験したこともない苦労を、文字通り血のでるような気持できりぬけてきた」と、さり気なく語つて微笑んだ。

 「この店を借りる時、三年間の家賃を、耳を揃えて出せといわれた時が、一番辛かつたけれど、命をかけたつもりで、親せき中を頼んでまわり、お金を調達したのですよ。そんな苦労をして開店したのだから、死んでもつぶせないとがんばつて来ました。そうねえ、人間、何だつて、やる気になればやれるものよ。やらない人は、やつてみない前から、やれないと決めているんじやないかしら、あたしだつて、自分にこんな事できる力があるとは、夢にも思わなかつたんですからね」

 淡々としたことばの中にも、十四年、真珠一筋に打ちこんできて、一つの事業を成功させた人の実行力と、意思の裏うちが力強くこもつていた。ご夫君は一昨年から南米ブラジルに出した店の方へ行かれているという。

 「淋しいなんて考えるひまもない位、忙しい」

 と、語る夫人の目の中には、一つの仕事を通して結びついている夫婦の愛情が、海をこえても、真珠の糸のように強くはりつめているのを見つめるような、深い色があつた。


年表

昭和21年
(1946年)

“MRS. MATOBA'S CREATION”として、丸の内にある連合軍接収N.Y.K.ビル(日本郵船ビル)内に創業


昭和25年5月                                  東京都千代田区に株式会社マトバを設立
(1950年)


昭和27年3月

(1952年)

日活国際会館日活ホテル(現、ペニンシュラホテル)完成と同時に、同ビルの地下1階アーケードに店舗を出店し、本格的に“マトバ真珠宝石店”として事業を開始。


昭和29年2月1日

(1954年)

世界的スターのマリリン・モンロー来店。アコヤパールネックレスを購入。


昭和45年

(1970年)

同ビルは日活株式会社から三菱地所株式会社の所有となり、オフィスビル日比谷パークビルへ変更。


昭和59年

(1984年)

初代社長的場實の死去に伴い、的場テルが社長に就任。


平成3年2月

(1991年)

第1回恵まれないラテンアメリカの子供達の為のチャリティーパーティーを開催し、以後毎年2月に開催する。


平成3年6月

(1991年)

創業40周年記念パーティーを明治記念館にて開催


平成13年3月                              日比谷パークビルの取り壊しが決定

(2001年)

平成13年6月                             創業50周年記念パーティーを虎ノ門パストラルにて開催

(2001年)

平成16年4月               帝国ホテルタワーへ移転。新社長に的場博子が就任。 

(2004年)

平成23年9月                              帝国ホテルタワーから現住所に移転。現在に至る。
(2011年)

平成27年2月        2月17日、的場テル、帰天(94歳)
(2015年)